みなさん、こんにちは。株式会社アドバンテッジリスクマネジメントのキティこうぞうです。今回は、アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンが子供の頃のお話です。彼は少年時代に父親が大切にしていた桜の木を折ってしまいました。父親に問い詰められたジョージ少年は、素直に「自分がやりました」と白状して謝ったのです。それを聞いて父親は、息子を叱らずに、「お前の正直な言葉は千本の桜の木よりも価値がある」と言って、逆にジョージ少年を褒めたということです。
とかく親や先生は子どもに、「ウソをつくな」と教えたがりますが、ウソをつかない子がいい子どもかというと、そうとも言えません。ウソは子どもが大人に成長するうえで、通らなければならない「関門」でもあるからです。事実、「ウソをついてはいけません」と子どもに教えている親や先生はウソをついています。この世で一番の大ウソつきは「私はウソをついたことがありません」と言う親や先生などの大人です。
ウソというのは、言い換えれば秘密を持つことです。親や先生に秘密を持つというのは、親や先生との間に心理的な距離を持つことです。赤ん坊や小さな子どもがウソをつかないのは「こうしたい」、「こうしてほしい」、「こうありたい」ということと、自分自身の間に距離がないからです。しかし、大人に近づいてくると、親や先生と自分が別の人格を持った人間だとわかってくるため、親や先生に言えないことも生まれてくるのです。このことは、みなさんが子どもだった頃を思い出せば、よくおわかりでしょう。
子どもがウソをつくのは、いわば精神が健全に成長している証拠です。それにもかかわらず、親が子どもに「ウソをつくな」と教えるのは、子どもの成長を恐れているからとも言えます。子どもがウソをついたり、秘密を持つと、自分からどんどん離れていくように思えます。それが怖くて、ウソをつくのはいけないことだと言ってしまいます。これは「いつまでも、かわいい子どものままでいてほしい」という親の身勝手な願望の表れとも言えます。
しかし、そんな親の思惑を超えて、子どもは次第にウソをついたり、秘密を持つようになってきます。子どもがウソをつくようになったら、それは子どもが「大人への第一歩」を踏み出した証拠です。ウソばかりつくようになっても困りますが、神経質にとがめすぎる必要もないでしょう。「ウソつきは泥棒のはじまり」ではなく、「ウソつきは大人のはじまり」なのです。
ちなみに、ワシントンが桜の木を切って父親にそのことを正直に話した桜の木の話は、ワシントンの死後に アメリカの牧師ロック・ウィームズが子供向けの本の中で、「ウソをついてはいけない」という教訓のために書いた作り話だそうです。「ウソをついてはダメだ」というこの話がウソだったわけです。
「ウソも方便」という格言もありますが、これは時と場合によってはウソも許されるというより、積極的にウソをついてでもその場を切り抜けるのが大人の知恵なんだというニュアンスが強いのです。ただし、最近問題になっている企業や政治家による虚偽の発表や報告は「許されないウソ」であり、大人の知恵や方便では片付けられません。子どものウソは許されても、確立された大人がつくウソは社会では通用しないのです。