第56回『多死社会』

みなさん、こんにちは。株式会社アドバンテッジリスクマネジメントのキティこうぞうです。先日、一冊の本を読みました。借金で自殺をしようとした人が直前に引き止められ、心臓などの自分の臓器を病気の人に移植をして、自分の借金を返すというストーリーです。主人公が自分の心臓を移植する少女に出会ったり、自らが死に直面することを通して、死についての考え方が変わっていく様子がうまく描かれていました。この本を読んで、私自身が死についていろいろ考えさせられました。本の中の台詞の一部をご紹介します。

「タダで捨てようと思っていた俺の体にイザ値段がつくとわかったら、もっと高く買ってくれなんて言ってるんだもんね。安いのか高いのかよくわかんないね、命の値段って」
「今、命の値段とおっしゃいましたが、厳密に言うと私どもが取り扱うのはドナー様の命ではありません。命がなくなったあとの肉体を扱わせていただいているんです。例えばあなたが横断歩道を渡っているところに脇見運転のクルマが突っ込み、あなたを死なせてしまったとします。そのクルマの運転手があなたの命を奪ったことになる。言葉を換えるとその運転手はあなたの個性や人格、あるいは生きる楽しみやこれから先に続いていたであろう未来を奪ったことになります。つまり、命とはあなたの個性や人格、そして未来です。ところが、あなたは自らの手で自分の人格を捨て、未来を断ち切ろうとしました。もし、私があなたの足を摑みそこね、あのまま自殺が遂行されていたら残るのはバラバラに砕け散った肉体だけです。つまり私たちが取り扱っているのは、その地面に激突する寸前のあなたの命の抜け殻なのです。そこの考え方にズレが生じていただめ、あなたは自分の査定額が命の値段にしては安いと感じてしまったのではないでしょうか」
「明日の朝、俺の体はバラバラに切り刻まれて新鮮なままいろんな人の身体に組み込まれることで生き続けていく。足や手もきっと誰かの手足となっていまと変わらず動き続けるだろうし、目も移植された人の生活を鮮明に映し続けていくはず。私の命の部分は消えてなくなったとしても、それを宿していた肉体部分は生き続ける。でもそうすると俺は俺自身を認識できなくなるだろうから、やっぱり死ぬってことになるのかな」

これからの日本は「多死社会」になっていきます。多死社会とは文字通り、多くの人が死んでいく社会のことです。今後20年で団塊世代が平均寿命に達していくことで、死亡者数は現在の1.5倍になるといわれています。少子化も相まって、このままでは日本の人口の大きな減少は避けられないと思われます。高齢化もますます進み、日本は活力に乏しい無気力な国になっていく恐れがあるのです。

これを少しでも防ぐために、私たちには死に対する考え方をあらためていくことが必要です。命には限りがあること、死に対して前向きに受け入れること、逆に命の重さについて認識することなど、一度死について考えてみませんか。たとえば、外国映画で牧師が病院などで死期が近い病人に祈りをささげている場面をよく目にしますが、もし日本の病院でお坊さんが同じように病人に祈っていたらどう思われますか。「縁起でもない!」と思われるでしょう。日本では宗教観の違いで、「死の前に死のことを話すのはタブーである」という考え方が強いからです。

冒頭に出てきた臓器移植についても、日本ではさまざまな考え方があり、本人の意思の有無によって死の基準までが違っている現状があります。「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」といいますが、「死」という未来は変えられないのです。それをどう受け止めて、自分や周りの人がどう受け入れていくのかを考える時期に来ているのではないでしょうか。死を前向きに受け入れ、死について積極的に話をしていく姿勢こそがこれからの日本の活力の鍵になってくる気がします。

ちなみに、先ほどご紹介した本は俳優の水嶋ヒロ氏が本名の齋藤智裕名義で書いている「KAGEROU」という作品です。お勧めですので、ぜひ一度書店で手に取ってみてください。

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